次の日、殆ど誰も口を利かないまま朝を迎えた。沈黙の中、急に携帯のアラームが鳴った。いつも俺達が起きる時間だった。
覚の体がビクッとなり、相当怯えているのが窺えた。覚は根が凄く優しいやつだから、前の晩、俺に言ったんだ。
「ごめんな。俺なんかより修の方が全然怖い思いしたよな。それなのに俺がこんなんでごめん。助けに行かなくて本当ごめん」
その時は本当に嬉しくて目頭が熱くなったけど、でもなぜか俺は覚のその言葉に引っかかるものを感じた。
覚は俺達が立てる音の一つ一つに反応したり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。
樹も普段と違う覚を見て、多少ビビリながらも心配したのだろう。
「おい、大丈夫か? 寝てないから頭おかしくなってんのか?」
と軽口を叩きながら覚の肩を掴んだ。すると覚は急に、
「うるさいっ!」
と叫び、樹の腕を凄い勢いで振り払った。
樹と俺は一瞬沈黙した。
俺「おい、どうしたんだよ?」
樹は急の出来事に驚き、声を出せずにいた。
「大丈夫かだって? 大丈夫なわけねーだろ? 俺も修も死ぬような思いしてんだよ。何にもわかってねーくせに心配したふりすんな!」
樹を睨み付けながらそう叫んだ。
何を言っているんだろうと思った。覚の死ぬ思いって何だ? 俺の話を聞いて恐怖していた訳じゃないのか?
樹と覚は仲間内でも特に仲が良かったのだが、その関係も樹が覚をいじる感じで、どんな悪ふざけにも覚は怒らず調子を合わせていた。
だから覚が樹に声を荒げる場面など見たことがなかったし、もちろん当の本人もそんな経験はなかったと思う。樹はこれも見たことないくらいに動揺していた。
俺は疑問に思ったことを覚に問いかけた。
「死ぬ思いってなんだ? お前ずっと下にいたろ?」
「いたよ。ずっと下から見てた」
そして少し黙ってから下を向いて言った。
「今も見てる」
今も? 何を? 俺は訳が解らない。全然解らないのだが、よくある話で覚の気が狂ったのだと思った。何かに取り憑かれたんだと。
そんな思いを他所に、覚は震える口調で、でもしっかりと喋り始めた。
「あの時、俺は下にいたけど、でもずっと見てたんだ」
「階段を昇って行く俺だよな?」
「違うんだ…。いや、初めはそうだったんだけど。修が階段を昇り切ったくらいから、見え出したんだ」
「…何が」
本当はこの時、俺の心の中は聞きたくないという気持ちが大半を占めていた。でも覚は、もうこれ以上一人で抱えきれないという表情だった。
昨晩、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれた樹と覚。あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、俺には聞かなくてはならない義務があるように思えた。
※
「何が、見えたんだ?」
覚はまた少し黙り込み、覚悟したように言った。
「影…だと思う」
「影?」
「うん。初めは修の影だと思っていたんだ。お前の周りを…動き回る影が…3つ…いや4つくらい見えた」
全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。どうかこれが覚の冗談であってくれと思った。しかし、今目の前にいる覚はとてもじゃないが冗談を言っているように見えなかった。
「あそこには、俺しかいなかった」
「わかってる」
「そもそも、あの場所に人が4、5人も入って動き回れるはずない」
あの階段は人が一人通れるほどの幅しかなかった。
「わかってる。あれは人じゃない。それに、どう考えても人じゃ無理だ」
覚はぽつりと言った。
「どういうこと?」
「壁に張りついてた。蜘蛛みたいに。壁とか天井に張りついてたんだ。それで、もぞもぞ動いてて、それで、それで…」
自分の見た光景を思い出したのか、覚の呼吸が荒くなる。
「落ち着け!深呼吸しろ。な? 大丈夫だ、みんないる」
覚は暫く興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話し始めた。
「…あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、形も人じゃない。いや、人の形はしてるんだけど、違うんだ」
覚が何を言いたいのか何となく解った俺は、
「人間の形をしたなにかが、壁に張りついてたってことか?」
と聞いた。
覚は黙って頷いた。
心臓の鼓動が激しくなった。咄嗟に覚が見たのは影じゃないと思った。影が壁や天井を動き回るのは不自然だ。仮にそれが影だったとしても、確実にそこに何かがいたから影ができたんだ。それくらい馬鹿の俺でも解る。
ということは、俺は自分の周りで這い回る何かに気付かず、しかも腐った残飯をモリモリと食べていたということなのか?
あの音は…? あのガリガリと壁を引っ掻く音は、壁やドアの向こう側からではなく、俺のいる側のすぐ傍で鳴っていたということか? あの呼吸音も?
恐怖のあまり頭がクラクラした。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、覚は傍に立っていた樹に向き直り、
「ごめん、さっきは取り乱して。悪かった」
と謝った。
「いや、大丈夫…こっちこそごめんな」
樹もすかさず謝った。
その後、何となく気まずい雰囲気だったが、俺は平静を保つのに必死だった。無意味に深呼吸を繰り返した。そんな中、樹が口を開いた。
「お前さ、さっき今も見てるっていったけど」
覚は樹が言い終わらない内に答えた。
「ああ、ごめん。あれはちょっと、錯乱してたんだわ。ははっ、ごめん、今は大丈夫」
嘘だ。覚の笑顔は、完全に作り笑いだった。明らかに無理した笑顔で、目はどこか違うところを見ているようだった。
樹と俺はそれ以上聞かなかった。臆病者だと思われても仕方ない。だけど怖くて聞けなかったんだ。
※
少しの沈黙の後、広間の方から美咲ちゃんが朝飯の時間だと俺達を呼んだ。3人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。
正直、食欲などある筈もなく。だが不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。
俺はのっそりと立ち上がり、二人に言った。
俺「なるべく早いほうがいいよな。朝飯食い終わったら言おう」
樹「そうだな」
覚「俺、飯いいや。樹さ、ノートPCもってきてたよな? ちょっと、貸してくれないか?」
樹「いいけど、朝飯食えよ」
覚「ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり時間もないし、悪いけど二人でいってきて」
俺「了解。美咲ちゃんに頼んでおにぎり作ってもらってきてやるよ」
覚「うん、ありがと」
樹「パソコンは俺のカバンの中に入ってる。ネットも繋がるから」
そう言って俺達はそのまま広間に向かった。
※
広間に着くと、女将さんが俺らを見て、そしてゆっくりと俺の足元をみて、満面の笑顔で聞いてきたんだ。
「おはよう、よく眠れた?」と。
そんな言葉、初日以来だったし、昨日のこともあったから凄く不気味だった。ビビった俺は直立不動になってしまったが、樹が、
「はい。すみません遅れて」
と返事をしながら、俺のケツをパンと叩いた。体がスっと動いた。いつも人一倍ビビっていた樹に助け舟を出してもらうとは思わなかった。
そして覚が体調不良のためまだ部屋で寝ていることを伝え、美咲ちゃんにおにぎりを作ってもらえるよう頼んだ。
「あ、いいですよ。それより覚くん、今日は寝てたほうがいいんじゃ」
美咲ちゃんは心配そうにそう言った。樹と俺は、得に何も言わず席に付いた。「もう辞めるから大丈夫」とは言えないからな。
朝飯を食っている間、女将さんはずっとニコニコしながら俺を見ていた。箸が完全に止まっていた。「俺、ときどき飯」みたいな。
美咲ちゃんも旦那さんもその異様な様子に気付いたのか、チラチラ俺と女将さんを見ていた。樹は言うまでもなく、凝固。
凄まじく気分の悪くなった俺達は朝飯を早々に切り上げ、部屋に覚を呼びに行った。
※
部屋に戻る途中、覚の話し声が聞こえてきた。どうやらどこかに電話をしているようだった。俺達は電話中に声をかける訳にもいかなかったので、部屋に入り座って電話が終わるのを待った。
「はい、どうしても今日がいいんです。…はい、ありがとうございます!はい、はい、必ず伺いますのでよろしくお願いします」
そう言って電話を切った。
どうやら覚は、ここから帰ってすぐどこかへ行く予定を立てたらしい。俺も樹も別に詮索するつもりはなかった。何も聞かず、すぐに覚を連れて広間に向かった。
広間に戻ると、美咲ちゃんが朝飯の片付けをしていた。女将さんは居なかった。
俺はふと、盆に飯を乗せて2階への階段に消えて行ったあの女将さんの後姿を思い浮かべた。
きっとあの時に持って行った飯は、あの残飯の上に積み重ねてあったんだろう。そうして何日も何日も繰り返して、あの山ができたんだろうな。
『一体あれは何のためなんだ?』
俺の頭に疑問が過った。
しかし、そんなこと考えるまでもないとすぐに思い直した。俺は今日で辞めるんだ。ここともおさらばするんだ。すぐに忘れられる。忘れなきゃいけない。心の中で自分に言い聞かせた。
樹が女将さんの居場所を美咲ちゃんに尋ねた。
「女将さんならきっと、お花に水やりですね。すぐ戻ってきますよ」
そう言って美咲ちゃんは、覚の方を見て、
「覚くん、すぐおにぎり作るからまっててね」
と笑顔で台所に引っ込んだ。
ああ、美咲ちゃん…何もなければきっと俺は美咲ちゃんとひと夏のあばん(略)
※
俺達は女将さんが戻って来るのを待った。
暫くすると女将さんは戻って来て、仕事もせずに広間に座り込む俺達を見て「どうしたのあんたたち?」とキョトンとした顔をした。
俺は覚悟を決めて切り出した。
「女将さん、お話があるんですけど、ちょっといいですか?」
「なんだい? 深刻な顔して」
女将さんも俺達の前に座った。
「勝手を承知で言います。俺達、今日でここを辞めさせてもらいたいんです」
樹と覚もすぐ後に「お願いします」と言って頭を下げた。
女将さんは表情ひとつ変えずに暫く黙っていた。まるで予想していたかのような表情だった。
長い、長い沈黙の後、
「そうかい。わかった、ほんとにもうしょうがない子たちだよ」
と言って笑った。
そして給料の話、引き上げる際の部屋の掃除などの話を一方的に喋り、用意が出来たら声をかけるようにと俺達に言った。
拍子抜けするくらいにすんなり話が通ったことに、俺達は安堵していた。だけど、心のどこかで何かおかしいと思う気持ちもあった筈だ。
話が決まったからには俺達は即行動した。荷物は前の晩の内にまとめてある。あとは部屋の掃除をするだけで良かった。
バイトを始めてから、仕事が終われば近くの海で遊んだり、疲れている日には戻ってすぐに爆睡だったので、部屋にいる時間はあまりなかったように思う。だから男3人の部屋と言えど、元からそんなに汚れている訳でもなかった。
そんなこんなで、一時間ほどの掃除をすれば部屋も大分綺麗になった。準備が出来たということで俺達は広間に戻り、女将さん達に挨拶をすることにした。
※
広間に戻ると女将さんと旦那さん、そして悲しそうな顔をした美咲ちゃんが座っていた。
俺達は3人並んで正座し、
「短い間ですが、お世話になりました。勝手言ってすみません。ありがとうございました」
と言って頭を下げた。
すると女将さんが腰を上げて俺達に近寄り、
「こっちこそ、短い間だったけどありがとうね。これ、少ないけど…」
そう言って茶封筒を3つ、そして小さな巾着袋を3つ手渡してきた。茶封筒は思ったよりズッシリしていて、巾着袋は凄く軽かった。
そして後ろから美咲ちゃんが、
「元気でね」
と言って少し泣きそうな顔をしながら言うんだ。そして「みんなの分も作ったから」と、3人分のおにぎりを渡してくれた。
『おいおい止めてくれ。泣いちゃうよ俺!』そう思ってあんまり美咲ちゃんの顔を見られなかった。
前日死にそうな思いをしたのにと思うだろ? だけど、実際凄く世話になった人との別れの時には、そういうの無しになるものなんだわ。
※
挨拶も済んで、俺達は帰ることになった。
来る時は近くのバス停までバスを使ったのだが、帰りはタクシーにした。旦那さんが車で駅まで送ってくれるという話も出たのだが、覚が断った。
タクシーが到着すると、女将さん達は車まで見送りに来てくれた。周りから見れば何となく感動的な別れに見えただろうが、実際、俺達は逃げ出す真っ最中だったんだよな。
タクシーに乗り込む前に、俺は振り返った。辛うじて見えた2階への階段の扉が、目を凝らすとほんの少し開いているような気がして、思わず顔を背けた。
そして3人とも乗り込み、行き先を告げるとすぐ車が動き出した。
旅館から少し離れると、急に覚が運転手に行き先を変更するよう言ったんだ。運転手に何かメモみたいなものを渡して、ここに行ってくれと。
運転手はメモを見て怪訝な顔をして聞いてきた。
「大丈夫? 結構かかるよ?」
「大丈夫です」
覚はそう答えると、後部座席でキョトンとしている樹と俺に向かって
「行かなきゃいけないとこがある。お前らも一緒に」と言った。
俺と樹は顔を見合わせた。考えてることは一緒だったと思う。
『どこへ行くんだ』
だが、朝の錯乱した様子を見た後だったので、正直気が引けて何も聞けなかった。
暫く走っていると運転手さんが聞いてきた。
「後ろ走ってる車、お客さんたちの知り合いじゃない?」
『え?』と思い振り返ると、軽トラックが一台後ろにぴったりくっついて走っていた。そして中から手を振っていたのは、旦那さんだった。
俺達は何か忘れ物でもしたのかと思い、車を停めてもらえるよう頼んだ。道の端に車が止まると、旦那さんもそのまますぐ後ろに軽トラを停めた。そして出て来ると俺達のところに来て、
「そのまま帰ったら駄目だ」
と言った。覚は暗い表情で応じる。
「帰りませんよ。こんな状態で帰れるはずないですから」
「え、どういうこと?」
何が何やら解らなかったので素直に質問した。
すると旦那さんは俺の方を向き、真っ直ぐ目を見つめて言った。
「おめぇ、あそこ行ったな?」
心臓がドクンッと鳴った。
『なんで知ってんの』
この時は本気で怖かった。霊的なものではなく、何と言うか大変なことをしてしまったという思いが凄かった。俺は「はい」と答えるだけで精一杯だった。
すると旦那さんは溜め息をひとつ吐くと言った。
「このまま帰ったら完全に持ってかれちまう。なぁんであんなとこ行ったんだかな。まあ、元はと言えば俺がちゃんと言わんかったのが悪いんだけどよ」
おい、持ってかれるってなんだ。勘弁してくれよ。もう終わった筈だろ?
不安になって樹を見た。樹は驚くような目で俺を見ていた。更に不安になって覚を見た。すると覚は言うんだ。
「大丈夫。これから御祓いに行こう。そのためにもう向こうに話してあるから」
信じられなかった。憑かれていたってことか? 何だよ、俺死ぬのか? この流れは死ぬんだよな? なんであんなとこ行ったんだって? 行くなと思うならはじめから言ってくれ。
あまりの恐怖で、自分の責任を誰か他の人に転嫁しようとしていた。
※
呆然としている俺を横目に、旦那さんと覚は話を進めた。
「御祓いだって?」
「はい」
「おめぇ、見えてんのか」
覚は黙り込む。
樹「おい、見えてるって…」
覚「ごめん。今はまだ聞かないでくれ」
俺は思わず覚に掴みかかった。
「いい加減にしろよ。さっきから何なんだよ!」
旦那さんが割って入る。
「おいおい止めとけ。おめぇら、逆にコイツに感謝しなきゃならねぇぞ」
樹「でも、言えないってことないんじゃないすか?」
旦「おめぇらはまだ見えてないんだ。一番危ないのはコイツなんだよ」
俺と樹は揃って覚を見た。覚は、暗い表情のままだった。
「どうして覚なんですか? 実際にあそこに行ったのは俺です」
「わかってるさ。でもおめぇは見えてないんだろ?」
「さっきから見えてるとか見えてないとか、なんなんですか?」
「知らん」
「はぁ?」
トンチンカンなことを言う旦那さんに対して俺はイラっとした。
「真っ黒だってことだけだな、俺の知ってるのは。だがなぁ…」
そう言って旦那さんは覚を見る。
「御祓いに行ったところで、なんもなりゃせんと思うぞ」
覚は、疑いの目を旦那さんに向けて聞いた。
「どうしてですか?」
「前にもそういうことがあったからだな。でも、詳しくは言えん」
「行ってみなくちゃわからないですよね?」
「それは、そうだな」
「だったら」
「それで駄目だったら、どうするつもりなんだ?」
また黙り込む覚。
「見えてからは、とんでもなく早いぞ」
早いという言葉が何のことを言っているのか俺にはさっぱり解らなかった。
だが、旦那さんがそう言った後、覚は崩れ落ちるようにして泣き出したんだ。声にならない泣き声だった。俺と樹は、傍で立ち尽くすだけで何もできなかった。