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隠堂の外では蝉が鳴いていた。なにか違和感を感じた。蝉の声に混じって他の音が聞こえるんだ。耳を凝らすと、段々その音がはっきりと聞こえるようになった。
俺は考えるより先に確信した。あの呼吸音だって。
覚を見た。薄暗くて分かりづらかったが、覚に気づいている気配はなかった。覚には聞こえないのか?そういえば覚って呼吸音について言ってたっけ?もしかしてあれは聞いたことがないのか?
頭の中で色々な考えが浮かんだ。すると硬直する俺の様子に気づいた覚が、周りをキョロキョロと見回し始めた。
この状況の中で、神経が過敏にならないはずがなかった。俺の異変にすぐ気づいたんだ。
すると、覚の視線が一点に止まった。俺の肩越しをまっすぐ見つめていた。白目が一気にデカくなり、大きく見開いているのがわかった。
樹も覚の様子に気が付き、覚の見ている方を見ていたが何も見つけられないようだった。俺は怖くて振り返れなかった。
それでも、あの呼吸音だけは耳に入ってくる。ソレがすぐそこにいることがわかった。動かず、ただそこで「ヒューッヒュー」といっていた。
暫く硬直状態が続くと、今度は俺達のいる隠堂の周りを、ズリズリとなにか引きずるような音が聞こえ始めた。樹はこの音が聞こえたらしく、急に俺の腕を掴んできた。
その音は、隠堂の周りをぐるぐると回り、次第に呼吸音が「きゅっ…きゅえっ…」っていう何か得体の知れない音を挟むようになった。
俺には音だけしか聞こえないが、ソレがゆっくりと隠堂の周りを徘徊していることは分かった。
樹の腕から心臓の音が伝わってくるのを感じた。覚を確認する余裕がなかったが、固まってたんだと思う。全員、微動だにしなかった。
俺は恐怖から逃れるために、耳を塞いで目を瞑っていた。頼むから消えてくれと、心の中でずっと願っていた。
どれくらい時間が経ったかわからない。ほんの数分だったかも知れないし、そうでないかも知れない。目を開けて周りを見回すと、隠堂の中は真っ暗で、ほぼ何も見えない状態だった。
そしてさっきまでのあの音は、消えていた。恐怖の波が去ったのか、それともまだ周りにいるのか、判断がつかず動けなかった。そして目の前に広がる深い闇が、また別の恐怖を連れて来たんだ。
目を凝らすが何も見えない。「いるか」「大丈夫か」の掛け声さえ出せない。
ただ樹はずっと俺の腕を握ってたので、そこにいるのが分かった。俺はこの時猛烈に覚が心配になった。覚は明らかに何かを見ていた。
暗がりの中で、覚を必死に探すが見えない。
俺は、樹に掴まれた腕を自分の左手に持ち直し、樹を連れて覚のいた方へソロソロと歩き出した。なるべく音を立てないように、そして樹を驚かせないように。
暗すぎて意思の疎通ができないんだ。誰かがパニックになったら終わりだと思った。
どこにいるか全くわからないので、左手に樹の腕を握ったまま、右手を手前に伸ばして左右にゆっくり振りながら進んだ。すると指先が急に固いものに当たり、心臓がボンっと音を立てた。
手に触れたそれは、手触りから壁だということがわかった。おかしい、覚のいた方角に歩いてきたのに覚がいない。
俺は焦った。更に壁を折り返してゆっくりと進んだ。だがまた壁に行き着いた。途方に暮れて泣きそうになった。「覚どこだ」の一言を何度も飲み込んだ。
どうしていいかわからなくなり、その場に立ち尽くしたまま樹の腕を強く握った。すると、今度は樹が俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出したんだ。
まず、樹は壁際まで行くと、掴んだ俺の腕を壁に触らせた。そしてそのままゆっくりと壁沿いを移動し、角に着いたら進路を変えてまた壁沿いに歩く。
そうやっていくうちに、前を歩く樹がぱたりと止まった。そして、俺の腕をぐいっと引っ張ると、何か暖かいものに触れさせた。それは、小刻みに震える人の感触だった。
覚を見つけたと思った。でもすぐ後に、(これは本当に覚なのか)という疑問が芽生えた。よく考えたら樹もそうだ。ずっと近くにいたが、実際俺の腕を掴んでいるのは樹なのか?
俺は暗闇のせいで、完全に疑心暗鬼に陥っていた。
俺が無言でいると、樹はまた俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出した。俺はゆっくりとついていった。すると、ほんの僅かだが、視界に光が見えるようになった。
不思議に思っていると、部屋にある隙間から少しだけ月の明かりが入ってきているのが目に入った。樹はそこへ俺達を連れて行こうとしているのだと思った。
何故気付かなかったのか、今、思っても不思議なんだ。暗闇に目が慣れるというのを聞いたことがあったけど、恐怖に呑まれてそれどころじゃなかった。ほんとにそこは真っ暗だったんだ。
※
とにかく、その時俺はその光を見て心の底から救われた気持ちになった。そして樹に感謝した。後から聞いたんだが、
樹「俺は見えもしなかったし、聞こえもしなかった。なんか引きずってる音は聞こえたんだけどな。でもそのおかげで、お前達よりは余裕があったのかも」と言っていた。大した奴だって思った。
光の下に来ると、樹の反対側の手に覚の腕が握られているのが見えた。月明かりで見えた覚の顔は、汗と涙でぐっしょり濡れていた。何があったのか、何を見たのか、聞くまでもなかった。
夜は昼と違って、凄く静かで、遠くで鈴虫が鳴いていた。
俺達は暫くそこでじっとしていた。恥ずかしながら、3人で互いに手を取り合う格好で座った。ちょうど円陣を組む感じで。
あの状態が一番安心できる形だったんだと思う。そして何より、例え僅かな光でも、相手の姿がそこに確認できるだけで別次元のように感じられたんだ。
暫くそうしていると、とうとう予想していたことが起きた。
樹が催したのだ。生理現象だから絶対に避けられないと思っていた。樹は自分のズボンのポケットから離塵さんに貰った布の袋をゴソゴソと取り出すと、立ち上がって俺達から少し離れた。
静寂の中、樹の出す音が響き渡る。なんか、まぬけな音に若干気が抜けて、俺も覚も顔を見合わせてニヤっとした。
その瞬間だった。
「覚くん」
一瞬にして体に緊張が走る。
するとまた聞こえた。俺達が隠堂に入った扉のすぐ外側からだった。
「覚くん」
俺達は声の主が誰か一瞬で分かった。今朝も聞いた、美咲ちゃんの声だ。
「覚くんおにぎり作ってきたよ」
こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。抑揚がなく、ボカロの声のようだった。覚の手にぐっと力が入るのが分かった。
「覚くん」
暫くの沈黙の後、突然関を切ったように続いた。
「覚くんおにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「覚くん」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」
「覚くん」
尋常じゃないと思った。美咲ちゃんの声なのに、すげー恐かった。扉の外にいるのは、絶対に美咲ちゃんじゃないと思った。
気付くと樹が俺達の側に戻り、俺と覚の腕を掴んだ。力が入ってたから、こいつにも聞こえてるんだと思った。俺達は3人で、隠堂の扉の方を見つめたまま動けなかった。その間もその声は繰り返し続く。
「いらっしゃいませぇ」
「覚くん」
「おにぎり作ってきたよ」
そしてとうとう、扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。
おい、ちょ、待て。
扉の向こうのヤツは扉をこじ開けて入ってくるつもりなんだと思った。俺は扉が開いたらどうするかを咄嗟に考えた。
『全速力で逃げる、離塵さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて…おい本堂ってどこだ』とか。もうここからどうやって逃げるかしか考えてなかった。
やがてそいつは、ガンガンと扉に体当たりするような音を立てだした。そしてそのまま少しずつ、隠堂の壁に沿って左に移動し始めたんだ。一定時間そうした後にまた左に移動する。その繰り返しだった。
『何してるんだ』
不思議に思っていると、俺はあることに気づいた。俺達のいる壁際には隙間が開いている。そしてそいつは今そこにゆっくりと向かっている。
『もし隙間から中が見えたら』
『もし中からアイツの姿が見えたら』
そう考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は2人を連れて急いで部屋の中央に移動した。
移動している。ゆっくりと、でも確実に。
心臓の音さえ止まれと思った。ヤツに気づかれたくない。いや、ここにいることはもう気づかれているのかもしれないけど。恐怖で歯がガチガチといい始めた俺は、自分の指を思いっきり噛んだ。
そして俺は、隙間のある場所に差し掛かったそいつを見た。見えたんだ。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音でしか感じられなかったそいつの姿を。真っ黒い顔に、細長い白目だけが妙に浮き上がっていた。
そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ち付けている音だと知った。そいつの顔が、一瞬壁の隙間から消える。外でのけぞっているんだろう。そしてその後すぐ、もの凄い勢いで壁にぶち当たるんだ。
壁にぶち当たる瞬間も、白目をむき出しにしてるそいつから、俺は目が離せなくなった。金縛りとは違うんだ、体ブルブル震えてたし。
ただ見たことのない光景に、意識を奪われていただけなのかも知れないな。
あの勢いで頭を壁にぶつけながら、それでも繰り返し覚の名を呼び続けるそいつは、完全に生きた人間とはかけ離れた存在だった。
結局、そいつは俺達が見えていなかったのか、隙間の場所で暫く頭を打ち付けた後、更にまた左へ左へと移動して行った。
俺の頭の中で、残像が音とシンクロし、そいつが外で頭を打ち付けている姿が鮮明に思い浮かんだ。
※
正直なところ、そいつがどれくらいそこに居たのかを俺は全く覚えていない。残像と現実の区別がつけられない状態だったんだ。
後から聞いた話だと、そいつがいなくなって静まりかえった後、3人ともずっと黙っていたらしい。
樹は警戒していたから。
覚は恐怖のため動けなかったから。
そして俺は残像の中で延長戦が繰り広げられていたから。
それで樹が俺を光の場所へ連れていこうと腕を掴んだ時、体の硬直が半端なくて一瞬死んだと思ったらしい。本気で死後硬直だと思ったんだって。
覚は覚で、恐怖で歯を食いしばりすぎて、歯茎から血を流してた。樹だけは、やっぱり姿を見ていなかった。
あと、そいつはそこから遠ざかって行く時カラスのように「ア゛ーっア゛ー」と奇声を発していたらしい。その声は、樹だけが聞いていたんだけど。
その二度の襲来によって、その後の俺達の緊張の糸が緩むことはなかった。ただ、神経を張り巡らせている分体がついていかなかった。
みんな首を項垂れて、目を合わせることは一切無かった。覚は、催したものをそのまま垂れ流していたが、樹と俺はそれを何とも思わなかった。
あんなに夜が長いと思ったのは生まれて初めてだ。憔悴しきった顔を見たのも、見せたのも、もちろん人でないものの姿を見たのも。悪い夢のようで、でも何もかも鮮明に覚えている。
隠堂の隙間から光が差し込んできて、夜が明けたと分かっても、俺達は顔を上げられずそこに座っていた。
雀の鳴き声も、遠くから聞こえる民家の生活音も、すべてが心臓に突き刺さる。ここから出て生きていけるのか、本気でそう思ったくらいだ。
強い太陽の光が屋内に入りこんできた頃、遠くからこっちに近づいてくる足音が聞こえた。俺達は自然と身構える。足音はすぐ近くまで来ると、隠堂の裏へ回り入り口の前で止まった。
息を呑んでいると、ガタガタっと音がして扉がゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、離塵さんだった。離塵さんは俺達の姿を見つけると、一瞬泣きそうな顔をして、
「よく、頑張ってくれました」
と言った。
あの時の離塵さんの目は、俺一生忘れないと思う。本当に本当に優しい目だった。
俺は、不覚にも腰を抜かしていた。離塵さんは、俺達の汗と尿まみれの隠堂の中に迷わず入って来て、そして俺達の肩を一人一人抱いた。離塵さんの僧衣から、なんか懐かしい線香の香りがして、
『ああ、俺達、生きてる』
と心の底から思った。そこで俺、子供のように泣いた。
暫くしても立ち上がれない俺を見て、離塵さんはおっさんを呼んできてくれた。そして2人に肩を抱えられながら、前日に居た一軒家に向かった。
途中、行く時に見た大きな寺の横を通ったんだ。その時、俺達3人は叫び声を聞いた。低く、そして急に高くなって叫ぶ人の声だった。
※
家の玄関に着くと耳元で樹が囁いた。
「さっきのあれ、女将さんの声じゃね?」
まさかと思ったが、確かに女将さんの声に聞こえなくもなかった。だが俺はそれどころじゃないほど疲れていたわけで。
早く家に上げて欲しかったんだが、玄関に出てきた女の人が「すぐお風呂入って」と言う。ま、しょうがない。だって俺達自分でも驚くほど臭かったしね。
そして俺達は、3人仲良く風呂に入った。怖かったから、いきなり一人になる勇気はさすがになかった。風呂を上がると見覚えのある座敷に通され、そこに3枚の布団が敷いてあった。
「まず寝ろ」ということらしい。
ここは安全だという気持ちが自分の中にあったし、極限に疲れていたせいもあった。というか、理屈よりまず先に体が動いて、俺達は布団に顔を埋めてそのまま泥のように眠った。
そういえば、隠堂から出る時、俺は覚に聞いたんだ。
「覚、もう、見えないよな?」
すると覚は、確かな口調で答えた。
「ああ、見えない。助かったんだ。ありがとう」
俺はその一言を聞いて、覚が小便を垂らしたことは内緒にしておいてやろうと思った。俺達は助かったんだ。その事実だけで、十分だった。
目を覚ました俺達は、事の真相を離塵さんに聞かされることになる。そして、人間の本当の怖さと、信念の強さがもたらした怪奇的な現実を知るんだ。