今から10年ほど前の話。私がまだ学生だった頃。
21時過ぎにアルバイトを終えて、自宅に戻るために一人で夜道を歩いていた。
当時はまだ実家暮らしで、夜道と言っても街灯もそこそこある住宅街。
そこまで真っ暗と言うわけでもなく、まして子供のころから育ってきた地元だったから近所の人も大体が知り合いだ。
同級生だって何人も住んでいるし、叫べば誰かしら出て来てくれるような、そんな感じの小さな田舎町。
バス停から降りて10分ほど歩けば自宅に着く。
いつも通り、イヤホンで音楽を聞きながら自宅へ向かっていると路地を挟んだ隣の家がやけに騒がしい事に気が付いた。
同級生が住んでいるその家は、いつもは駐車場に車が2台止まっているだけなのに、その日は駐車場をはみ出して車が5,6台は止まっていた。
(何だろう?)
親戚の集まりでもあったのだろうか。
それにしても、お盆も正月もまだ遠い中途半端なこの時期。
何かがあった事は確実だった。
「あああ・・・ああああ・・・っ」
歩みを進め、隣の家を通り過ぎようとしたその時、わずかに開いていた窓の隙間から、叫び声のようなものが聞こえてきた。
「ああああああ・・・・ああああああ・・・」
思わず立ち止まり窓を凝視する。
同級生のお母さん、つまり隣の家の奥さんが狂ったように泣いていた。
やはり親戚も集まっているらしく奥さんの背中を撫でたり、同じようにハンカチで顔を覆っている様子が見える。
(・・・?)
あまりの様子に絶句した私は、見なかった事にしようとその場に背を向け自宅へ向かって歩き出した。
その時、隣の家の庭先から男の人がヌッと姿を現した。
旦那さんだ。
奥さんが泣き叫んでいると言うのに、なぜ旦那さんはこんな所に立っているんだろうか。
何か後ろめたい事でもあるのだろうか。
(ああ、もしかして・・・?)
(この旦那さん、やらかしたんだな)
直感的にそう思った。
近所に小さな飲食店を経営している旦那さん。
そのお店は田舎町の隅にある小さな歓楽街の中にあり、近くのスナックで働く女性の出入りも多かったのだ。
もしかしたら、お店に出入りしていた女性とうっかりそういう関係になってしまい修羅場になっているのかもしれない。
学生ながらそういった知識はしっかりと持ち合わせていた私は、興味本位半分、怖いもの見たさ半分で庭に佇む旦那さんに声をかけてみた。
「〇〇くんのお父さん、こんばんわ」
「・・・ああ、〇〇ちゃん。こんばんわ」
私の存在に気付いた旦那さんが、庭の塀越しにこちらに振り向いた。
なんとなく決まり悪そうなその様子に、持ち前の野次馬根性がうずいてしまう。
「何かあったんですか?」
何も知らないきょとん顔で旦那さんに聞いてみると、さらにその表情が曇った。
「あー、ちょっとね・・・」
(これは完全にクロだな)
旦那さんは女性関係できっとやらかしてしまったのだろう。
きっと怒り狂った奥さんが親戚中に連絡して修羅場になっているに違いない。
(明日は近所中で噂になってるんだろうな)
こんな田舎の住宅街でこれだけ大騒ぎしていれば、明日には近所のスピーカーおばさんから詳細がしっかりと母の元へ伝えられている事だろう。
「そうですか」
我ながらだいぶ性格が悪いと感じるが、内心ニヤニヤしながらもその場はすんなりと引き下がる。
旦那さんもそれ以上は何も言わず、そのまま庭先に立ち尽くしていた。
隣の家の窓からは未だに奥さんの泣き叫ぶ声が聞こえている。
(大人の火遊びも度が過ぎると大火事になるって本当だな)
ほんの数メートル歩いた先にある実家へ戻ると、家で待っていた母がすぐに顔を出した。
「お帰りなさい」
お隣の修羅場の件ですでに何か情報をつかんでいるのだろうか。
面白そうなその話を聞き逃すまいと、私は耳に着けていたイヤホンを引っ張って外し、ポケットに突っ込んだ。
母は神妙な顔をして口を開いた。
「お隣の旦那さん、亡くなったのよ」
「昨日の夜お店で起こった喧嘩の仲裁に入ったら包丁で太ももを刺されて、搬送先の病院で今朝亡くなったんだって」
母の言葉を理解するのに時間がかかった。
じゃあ、さっき隣の家の庭で私が話した旦那さんは一体誰だったのだろうか。
そういえば、私はずっとイヤホンをしていたのにどうして旦那さんと話すことができたんだろう。