体験談

無賃乗車の女

小雨が降る秋の終わりの夜だった。
あの時の出来事は恐怖や不気味さとはまた違う思い出として今でもハッキリと記憶に焼き付いている。いい思い出とは言い難いが悪い思い出でもない。
今日はその時の出来事について話そうと思う。

 深夜の帰路

20代の頃、ほんの数年間だけ東京に住んでいた事があった。住んでいたと言うには烏滸がましい程度の短期間ではあったけど非常に濃い数年間でもあった。
大学卒業後にとあるベンチャー企業に就職した私は新たな生活と自分の成長に大いなる期待を抱いて上京した。
高校も大学も地元だったため上京して漸く親元を離れることになり、初めての開放感と高揚感に胸を踊らせていたものだ。

しかし、そんな意気揚々とした日々もほんの数日で幕を下ろす。
恥ずかしながら、就職を決めた時はただ“ベンチャー企業”と言う名前の響きだけで会社を決めたようなものだった。
結局、ベンチャー企業でやりたい事も、実現したい未来も、その覚悟すらも無いまま、すぐに土日も関係なく働き詰める毎日が始まった。

毎日毎日寝不足でふらふらになり、終電が無くなる時間まで働いた。
正直なんでこの仕事をしているのかも分からなかった。
ただただ自分の選んだ道を後悔してばかりいた。

 

隣に座る見知らぬ女

その日も仕事が遅くなり深夜0時を回ってから会社を出た。もちろん電車は無い。
クタクタになりなりながら会社の前でタクシーを拾い、転がるように車内に乗り込んだ。

家に帰る頃には深夜2時近くなっているだろう。
シャワーを浴びてほんの数時間寝てまた朝イチの電車に乗り込む事になる。
うんざりと言うよりも、もはや絶望にも似た気持ちのまま、私はタクシーに揺られていた。

深夜だと言うのに東京は酷く明るい。

地元の田舎であれば深夜には薄暗い街灯がぽつぽつと不気味に道路を照らす程度だと言うのに、東京は深夜でもビルの灯りが煌々とし、街灯は等間隔に配置され、昼間ほどではないにせよタクシーや車が絶えず行きかっている。
ヘッドライトに照らされた道をタクシーの後部座席でぼんやりと眺めていると、ふいにタクシーが停止した。

赤信号だ。

私が田舎者だからと言ったって別に赤信号など珍しい物ではない。
当たり前のように停止するタクシーの中で、当たり前のように信号が変わるのをぼんやりと待っていた。

しかし、その時ふいに身体の右半分が急にひんやりとした空気に包まれた。
あ、と思った時にはすでにその女は居た。

タクシーの後部座席、左側に乗っていた私の隣。
運転席のすぐ後ろに、その女は居た。
白いカットソーと黒いスカートに肩ぐらいまでのショートボブの女が、右側の車窓をじっと眺めるように座っていたのだ。

まずいなと、すぐに思った。
かなり疲れが溜まっているらしい。
普段気を張っていればほとんど見える事の無いものが、視界の端にはっきりと映っているのだ。

窓の外を眺めているため女の顔は見えない。
しかし、絶対に生きている人間で無い事だけは、身体の右半分の寒さを考えれば明らかだった。

その当時の私は、「見える」事もあるけれどそれをどうこうする知識なんて持ち合わせては居なかった。
見える事があっても無視しておけば大抵どうにかなったし、自分の身に何かが起こった事も無い。
時折視界に映るそれらが必要以上に私と距離を詰めてくる事も無かったのだ。

しかし、この時ばかりは事情が違った。

今まである程度離れた場所でしか見た事の無いような物がすぐ隣に居る。
ルームミラーで運転手を確認したけれど、自分の父親程の年齢の運転手は後部座席の異変になど一切気づいていないらしく、ただまっすぐ前を見据えて運転に集中しているようだった。

こうなったら自分も無視を決め込むしかない。

心も体も疲れ切っていた私は、運転手に後部座席の女の存在を訴えるほどの気力も残っては居なかった。
これまでの経験で、彼ら彼女らが私に取り憑いて家まで付いてくると言う事も無い。

どうやら、彼らはこちがらあからさまな反応さえしなければ、自分たちが相手から「見えている」かどうか気づく事は無いらしかった。

もしかしたら、自分が既にこの世の者では無い事にすら気づいていないのかもしれない。
ひんやりとした空気を半身に感じながら、およそ1時間のドライブに身を任せることにした。

形容しがたいエンジン音と、不定期にカチカチと音を立てるウインカーの音を聞きながら、左側のドアに半身を預け微動だにせずに東京のネオンに視線を向け、私はただひたすら車の振動に身を任せていた。

 

目的地だった最寄り駅まで着き、タクシーが停車する。
すると、突然右隣の女が動きだした。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

意味も分からないうめき声を上げ、後部座席のドアを引っかき始めたのだ。

カリカリカリカリカリカリカリカリ……

私がギョッとしていたのもつかの間、右側のドアが自動的に開く。
運転手が手元のボタンでドアを開けたのだろう。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

意味の分からないうめき声を上げながら、女がタクシーのドアから音も無く外へと移動していく。
どうやらここが目的地だったらしい。

薄暗い路地の方へと消えていく女を見送りながら、私は運転手さんの顔をルームミラー越しに覗く。すると、皺が走る眦(まなじり)が申し訳なさそうに下げられた。

「ごめんね、見えてたね?」

「そうですね」

「いつもこの道を通る時に乗るんだよ、どうやって戻ってくるのか知らないけどね。毎回あそこでのって此処で降りる。」

「そうでしたか」

「ま、悪さもしないしうちのタクシーにだけ乗る訳でもない。」

どうやら、あの白い女性はタクシーの運転手たちの間では既に常連となっているようだった。

「鉢合わせしたくなければ、もう少し先か、もう少し後ろで乗ると良いよ」

「……わかりました」

確かにいつも深夜にタクシーで帰宅してもあの女を見る事はない。
偶然にも今日は普段乗る場所よりも少し先でタクシーを拾ったのだ。
そこが彼女のための停留所とも知らずに。

 

 

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